深谷隧道についてのメモ書き
廃道界のカリスマ平沼義之氏のサイトに深谷隧道のレポートがアップロードされたので、
便乗して記事を投稿^q^
#文章力が無いので、箇条書きで!
#他の林道との関係等、端折っている箇所多数です。詳細は各文献にて。
#平沼氏のレポート内に
一方の坑口が右書きで、他方が左書きというのは、他の例が思いつかない。
とありますが、例えば小狗子隧道がそうでしょうか。
まぁ、あれは特殊な物件ですので例外扱いでしょう^^;
当時の三川村は紀州のチベットと称された秘境で、電灯はなかったというから驚きです。
森林組合(真砂氏)と行政(古賀氏)、立場は違えど、深谷隧道への思いは同じでした。
深谷林道誕生の経緯
真砂久一氏による。
- 昭和9年の室戸台風で三川村と鮎川村で大量の風倒木を出した。
- 鮎川には不完全ながら林道があったので被害木の搬出が出来た。
- 三川村の被害木は深谷川の岸にはい積して、適当な雨による出水を待ち、日置町へ川狩りで出そうという目論見であった。
- ところが翌昭和10年に稀にみる大雨でこの丸太は全部流出、日置川から大海に出てしまった。
- 普段であれば、台風通過後に必ず起こる強い西風のため、海岸に吹き寄せられ、大部分は拾い集められるが、昭和10年の水害は、未曽有の雨量であったため、丸太ははるか遠くに流れてしまった。
- 回収できた丸太も、日置の材木商では時価の半額位の値しかつかない。
- そこで舟をまわして新庄港へ運び、製材所で賃挽の上製品として正しい値で処分しようと考えた。
- しかし回送中の夜、舟が暗礁に乗り上げてしまう。木材を一度海に投げ込み舟を助けたが、翌日回収できた木材は当初の三分の一であり、大きな赤字となった。
- 泣くにも泣けない。「道があったらなぁ」と長嘆息。
- 台風は今後も襲来する。川狩りによる輸送は輸送費が安いが、年に一二回しかない「適当な出水」がなければ利用できない場所もある。このままでは林業は立ち行かない。これを救うのが道路である!!!
深谷林道築設成功のもととなった下津屋林道や、測量、道路開設までの数多の困難については、
真砂久一氏『深谷林道築設当時の思い出』にて。
深谷隧道開設の社会的背景
『深谷林道築設当時の思い出』にあるように輸送の転換の他、
県林務課林道係長の古賀寛氏『深谷隧道物語』によると、
- 産業、経済、文化が田町村から遅れていた三川村の活性化。
- 航空機、船舶等、軍需用材として使用する広葉樹の大径木を陸送するため。
等々の理由もあった。
トンネル掘削
- トンネルは地形図により概算、延長約三○○メートルの見込みであったが、測量の結果予想の倍以上の七〇〇メートルとなった。
- 延長を短縮するためには三川、鮎川の両側にヘアピンカーブをつけなければならず、そうなると通行者の不平を買うだろうから、敢えて測量のやり直しなどしないことにした。(水呑トンネルが取り付け部分の不備で不便を与えていた背景から)
- 他の業者よりも安価で請け負うと金城組(朝鮮人グループ)が申し出てきた。
- 真砂氏は必ず物議が起こるからと絶対反対した。
- 県の林務課の道路係の技師は真砂氏の意見を無視し、工事を邪魔するけしからぬ男とののしった。
- 組合長は県技師の言うままに契約にした。
- 将来の事業に責任を持たねばならぬ理事の真剣な意見を無視するばかりか、
工事の施行を妨害するものといわれては、他の理事と共同して事業の遂行は出来ぬと理事を辞職し、以後工事については全くタッチしないことにした。
『大塔村誌』によると、
- 工事従業者は礼儀正しく、土地の人ともよくなじみ、夏季期間中など家庭内で上半身裸で休んでいても来訪者があるとすぐに上衣を着るなど、近隣の人たちにも好感を与えたと言われている。
しかし、
- 極一部の悪質労務者に工事前払金を持ち逃げされる事件
があったという。
- 理事を辞任してからも気になるからと時々現場へ見に行った真砂氏(Kawaii!)曰く、「予想通りだ。」
[以下、『深谷隧道物語』中心。真砂氏は召集を受け、現地を離れる。また、復員後も工事には関与しなかった。]
- この一件を受けて三川村長の前川基一氏は全責任を取って村長と、兼務していた森林組合長を辞任することとなった。その後も隧道工事への思いは変わることはなかったが、苦悩の末、自ら命を絶った。
- 当初、隧道は昭和19年度に完成予定であったが、戦局の悪化による食糧・資材不足と他に例を見ない程堅い硬砂岩が工事の進捗を阻んだ。
古賀氏曰く、
- 中断すれば再開の目途は立たず、例え再開したとしても隧道の支保工は腐朽し莫大な復旧費を要する。
- 最も恐れたのは、村民の希望が打ち砕かれ戦意を喪失こと。
- 例え牛歩の歩みであっても工事を続行しておれば村民の前途の希望は消えずいつの日か村民の熱意が燃え上がり総力が結集される日の到来もあろう。
終戦時の工事中断
- 日本の支配下にあった朝鮮は開放され、植民地から独立国となり、朝鮮民族は戦勝国民としての誇りと優越感を持って日本に対処するようになる。
- その言動は反動化し公然と法律、法規を無視してはばからず警察もこれを取り締まることが出来ない混乱期を迎える。
- 深谷隧道を請け負っていた金城組も工事を中止し請負工事費の変更、増額を要求するようになる。
- 金城組による隧道の完成は見込めないので契約を解約し、日本人の有力な業者と契約を急ぐ必要があった。
- 当初金城組は解約に応じなかったが、工事費の未払いの清算の他、金城組親方は朝鮮へ帰国するための舟の購入代の支払いを条件に解約すると申し出た。
- 組合側は「唐突の無鉄砲な申し出」を拒絶し、両者の主張は完全に対立する。
- 金城組が居座って無限ストに入った場合は日本人の有力業者の参入は不可能であるので、最後は組合側が折れた。
- 金城組が掘ったトンネルの割合は三分の一程度であった。
工事再開、竣功
- 国鉄紀勢本線の隧道工事で評判が高かった西本組(当時は三建工業に吸収合併)に請け負ってもらった。
- 電気が来ていないので、換気施設も酸素マスクもなく酸欠状態に陥って気絶するものが続出。
- 資金面で目鼻がついた後は急ピッチで進んだ
- 深谷隧道は戦中戦後の日本の動乱期の縮図であり、人間の苦悩と汗がしみ込んだ造作品である。
- 隧道完成後のに朝鮮戦争による特需景気は三川村森林組合にとってタイミングの良い幸運であった。
- 木材需要が急増し隧道を通行する車輛数も増加し、隧道使用量の増収となり森林組合の借入金の返済に隧道は貢献した。
- 黒部ダムのテストケースとして合川ダム(殿山ダムとも、発電用)が築造されたが、建設資材の運搬路として一役買った。
- 殿山発電所により、三川全地域はランプ生活から脱した。
- 森林組合林道のトンネルとしては日本一。
中央との折衝やインフレとの戦い、建設に関する詳しい情報は古賀寛氏『深谷隧道物語』にて。
その他資料
『深谷林道築設当時の思い出』より引用
『深谷林道築設当時の思い出』より引用
Googleストリートビューで見る限り、開削済みのようです。
『大塔村誌』より引用
『深谷隧道物語』より引用
隧道延長について
『深谷隧道物語』:641.50m
『深谷林道開設当時の思いで』:647m
『大塔村誌』:643m
微妙に違う^q^
尚、工事費は壱千二百九十三万六千円(『深谷林道開設当時の思いで』)
参考文献
- 真砂久一『深谷林道築設当時の思いで』
- 古賀寛『深谷隧道物語』
- 大塔村『大塔村誌』